涼井警部補の事件簿(第1回)
第1回 大麻所持の否認(黙秘)事件
大麻所持の否認(黙秘)事件
ここはある地方都市の中規模警察署、廊下の消灯時間を過ぎ、談話室の明かりだけが柔らかく灯っている。湯気の消えかけたマグカップが二つ、丸いテーブルに向かい合うように置かれていた。紺の背広に身を包んだ涼井警部補は、椅子の背に軽く背中を預け、マグカップを持つと少し冷めたコーヒーをすすった。年の頃は40歳くらいだろうか、スーツ越しでも分かる鍛えられた身体に、不釣り合いにも見える少年のような顔、人に警戒心を持たせない不思議な雰囲気を持つ男だ。
向かいでは、新任の春田巡査長が背筋を伸ばしたまま、緊張と好奇心を混ぜた顔で先輩の言葉を待っていた。
涼井警部補は署内でもきっての理論派で、同僚たちからは「先生」というあだ名で呼ばれている。噂では給料の大半をつぎ込んで法律書を買い込んでいるということで、刑法・刑事訴訟法に関する緻密な分析に定評がある。所属は刑事課(薬物対策係)だが、わざわざ他の課の署員が質問に来ることもあった。
涼井は、柔和な笑顔で目の前の春田に語り掛ける。
「春田さん、大麻所持の否認事件は初めてでしたね。心配するのは良く分かります。私も新任の頃はどうすれば良いのか分からず右往左往していました。ですが、順序立てて見れば、むしろやるべきことははっきりしますよ。」
語尾を柔らかく落としながら、涼井はマグカップの取っ手を軽く指先でつまむ。
春田は、接見で何が起き、どこが捜査の弱点として狙われるのかを掴み切れていない。涼井は、春田の表情をうかがいながら、言葉を選んで話し始めた。
「弁護人が接見で必ず押さえる要点が五つあります。こちらがそれを先に理解して手を打っておけば、後手には回りません。
要するに、先回りですね。―― 先回りとは、相手より早く動くことではなく、相手が取りえる行動を想定して封じることです。」
「第一は、逮捕に至る“経緯”の確認です。弁護人は必ず『どうしてあなたは呼び止められ、どうやって大麻の発見に至ったのか』を被疑者から細部まで聞きます。」
涼井は一拍置く。
「職務質問の必要性、所持品検査の同意の取り方、現認の状況。ここに綻びがあれば、その一本の糸から全体がほどけることを、彼らは知っています。
ですから、我々は〈なぜその人に声を掛けたか〉〈どの言葉で同意を得たか〉〈どの順番でどのポケットに触れたか〉まで、後から第三者が読んでもその光景が浮かぶ程度に、丁寧に記録しておく必要があります。」
春田は思わずメモを取る手に力を入れた。
「防犯カメラ映像の保全も、できれば“前後を広く”です。肝心な場面だけを切り取ると、そこに至る経過が見えず、推測で不利な物語が差し込まれます。防犯カメラ映像は、弁護人が証拠保全手続(刑訴法179条1項)で確保してくる可能性もあります。一部分のみしか録画がなければ、例えば、『録画のない場面で警察官から暴行を受けた』という被告人の弁解の信用性が排斥できないとして、違法捜査と判断される危険性もあります。
捜査段階では弁護人は検察官との交渉も視野に入れるでしょうね。違法収集証拠として証拠排除されるのは、『令状主義の精神を没却するような重大な違法があり、これを証拠として許容することが将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合』(最判昭53.9.7刑集32巻6号1672頁)ですが、検察官は『違法捜査の疑い』があるとなれば起訴を見送る可能性があるからです。そのため、先回りして違法捜査の疑いがないことを証拠で固めておく必要があります。」
説明は断定的でありながら、語尾はあくまで穏やかだ。命令ではなく手ほどき。涼井は、部下にも“です・ます”を崩さない。

声掛けから逮捕までの経緯において、違法捜査の疑いがないことを証拠で固める。
「第二は、押収物と証拠の確認です。量、包装、形状、におい、状態、発見から鑑定までの扱い(保管・引継・封印)――このチェーンに切れ目がないか、弁護人は、被疑者から詳しく聞きます。これは公判でも必ず吟味されます。」
涼井は、机の上に、人差し指で、小さなチャック付ポリ袋の形をなぞるように描いた。
「現場の簡易鑑定は逮捕のきっかけにすぎません。正式鑑定に出すまでの取り扱い手順に粗さがあると、後からそこに『疑い』が注ぎ込まれます。チャック付ポリ袋の写真は〈開封前・開封後〉、採取は〈撮ってから触れる〉、触れるなら〈誰が・どの順に〉。ほんの数分の手当が、数か月後の法廷で大きな差になります。
所持していた大麻がどういった外観であったかということを写真撮影で明瞭に保存しておくことも、『故意』の認定で重要になります。今回は乾燥大麻なので一目瞭然ですが、液体大麻などでは一見すると大麻と判断できないことがあります。同種前科があれば大麻であることの認識が認められる可能性は高くなりますが、初犯の場合は大麻所持の『故意』が否定される可能性もあります。」
さらに、尿の提出と結果も、重要な位置づけを持つ。検査の案内、採取の手順、提出の同意と記録 ――“正しくやっていること”が伝わるように、淡々と積み木を積む。
「『受動喫煙だった』という弁解は珍しくありません。しかし、麻薬取締法改正時の国会答弁でも『喫煙者と受動喫煙者の区別は科学的に可能』と説明されています。ですから、我々がすべきことは“正確な経過の記録”です。結論は裁判所が出します。個々の捜査で、警察が正確な手順を踏むことは、長期的に裁判官の警察に対する信頼を生みます。自白事件であっても手順を飛ばさないことが大事です。」
春田はうなずいた。警察が緻密な捜査を実践し、一貫して公正であることを示すことで、裁判官の信頼が生まれる。春田は、「警察の威信を保つのは日々の確実な積み重ね」だと、警察学校時代に繰り返し叩き込まれたことを思い出し、軽く苦笑した。

証拠物を、正確な手順で的確に押収・保管したことを証明するため、その経過を記録する。
「第三は、事実の確認です。弁護人は、大麻の入手経緯から、逮捕時に警察官が述べた一言、取調べでの言動に至るまで、被疑者の供述から事実を丁寧に聴き取ります。そして、否認事件であれ自白事件であれ、弁護人は“法廷に提出された、信用性がある全ての証拠を合理的に説明できる、被疑者にとって最も有利な物語”――ケース・セオリーを組み立てようとします。」
涼井は、春田が取っているメモの余白に小さく“物語”と書き、その二文字を囲んだ。涼井は「人間は、そんな合理的にできていないんですけどね。」と誰に言うでもなく呟き、話を続ける。
「私たちに必要なのは、物語の前提となる“事実”の証拠を、私たちの手で客観的に確定することです。事実を確定して、静かに並べれば物語の骨組みは明確になります。そこへ架空の物語を差し込もうとしても、骨組みが壊れることはありません。供述だけに着目せず、いつ、どこで、何をして、何をしなかったかまで記録してください。」

春田はうなずきながら尋ねる。
「今回は、被疑者のズボンの後ろポケットから大麻のパケが発見されましたが、例えば被疑者が『古着を購入したら入っていた』と言い出したらどうでしょうか?」
「その“弁解”を徹底的に検証するだけです。どこでそのズボンを購入したのか、説明を求めて店舗の仕入れ台帳を確認しに行きます。言い分の検証は、否定のためではなく、事実確認のために行います。」
春田は続ける。「弁護士が、私たちが裏付けの取れない言い訳を吹き込んできたらどうでしょうか? 例えば、警察官がポケットに入れたとか。」
「被疑者のポケットからパケが発見された過程をちゃんと証拠化していれば、そういう言い訳は公判では通りませんし……そもそも、“普通”の弁護人が、虚偽の陳述をそそのかすことはありません。弁護人にも、弁護人を縛る弁護士倫理があります(弁護士職務基本規程「第75条(偽証のそそのかし) 弁護士は、偽証若しくは虚偽の陳述をそそのかし、又は虚偽と知りながらその証拠を提出してはならない。」)。時々『弁護人にそう言えと言われた』と供述する被疑者がいますが、私は信用していません。弁護人が言い訳を吹き込んだ場合、その言い訳が通らなければ、被疑者から『お前が嘘をつけといったからだ』と弁護人が責められる材料になるからです。」
涼井は軽く笑って付け加える。
「むしろ、そういう被疑者の『自白』には特に慎重になる必要があるでしょうね。わざと事実と異なることを混ぜ込んで、公判で虚偽の自白を強いられたと言ってくる可能性もあります。まあ、どんな言い訳が出されても私たちは、丁寧に、淡々と捜査をするだけです。」
“淡々と”。涼井の口癖だった。捜査、特に反社に対する捜査には人一倍の熱量を持っている男が、このような言葉を使うことに春田は不思議な感慨を覚えた。

徹底した裏付け捜査により事実を一つ一つ確定させていき、つけ入る隙のない骨組みを組み立てる。
「第四は、身上と背景の聴取です。弁護人は家族や職場、生活のスタイルを聞き、情状弁護の材料を集めます。保釈の引受けや、治療につながる社会資源も検討するでしょう。今回は執行猶予中の再犯ですが、一部執行猶予の可能性も考慮すると思います。」
涼井は続ける。
「執行猶予中の再犯は、同種前科であればほぼ実刑になります。近時、再度の執行猶予の要件が緩和されましたが、刑法25条2項は『情状に特に酌量すべきもの』がある場合にのみ再度の執行猶予を付すことができるとしており、通常は認められません。今回の大麻所持に『情状に特に酌量すべきもの』があるとは思えませんが、弁護人は、一部執行猶予の可能性は探ってくるでしょうね。」
春田はわずかに眉をひそめた。「そこは、捜査で何か意識しておくべきことがあるのでしょうか。」
「あります。捜査段階では黙秘していた被疑者が、公判では自白したことから反省しているとして、罪が軽くされることがあります。しかし、例えば被疑者のSNSではおよそ反省した態度を示していなかった、ということもあります。被疑者の氏名で検索してSNSを発見したら保全しておくといったことも考えられます。
最近は、実刑見込みでも保釈が認められる事案は珍しくありません。起訴後の進行を見越し、関係者の所在、連絡手段、監視の手法など“先の段取り”を頭に入れておくと、無用な混乱を防げます。」
春田は、涼井の話を聞き漏らすまいと一生懸命メモを取る。

保釈請求がなされる可能性も視野に入れ、逃亡や罪証隠滅のおそれがないか、犯行の背景、被疑者の身上・人間関係等をしっかり調べておく。
「第五は、今後の方針です。罪を認めて情状を良くするのか、否認して争うのか。弁護人は、被疑者の意思を確認し、その意思に沿って準備を始めます。本件では無罪主張はまず通らないでしょうが、それでも争う被告人はいます。弁護人は、被告人が弁護人に対して有罪を自白した場合であっても、無罪主張を求められたら無罪を主張するのが職責とされています。」
涼井は、テーブルの上のマグカップを脇に押しやり、右手の人差し指でテーブルの上に線を描く。
「大切なのは、こちらが“どちらの道にも耐えるだけの正確な証拠”を整えておくことです。罪を認める流れでも、証拠が粗ければ後に争いの火種になります。争う流れでも、証拠が固ければ否認は無駄な時間稼ぎにしかなりません。以前は、公判期間中に執行猶予期間が経過したら刑の言渡しの効果が消滅するということがありましたが(いわゆる「弁当切り」)、令和7年6月1日施行の刑法改正で、起訴された時点で執行猶予期間が切れていなければ、効力が継続するとされています。今回は、前刑の執行猶予付判決が令和7年6月1日以後に出されていますので、弁当切り狙いで公判を引き延ばすということはないでしょうね。」
春田が口を挟む。「でも、今回の被疑者は完全にだんまりで、私も取調室で雑談をしてみたりしているのですが、一切口を開きません。最近では、留置場から出ることを拒否する被疑者もいると先輩に聞いているので、そうなるのではないかと心配しています。」
涼井は、軽く笑い、コーヒーを飲み干すとゆっくりと語り始めた。
「よくある話ですね。10年ほど前から弁護士の卵(司法修習生)に対する教育内容が変わって、捜査段階では被疑者に原則として黙秘させるようになったようです。そのため、黙秘する被疑者が増えたことは間違いありません。それで戸惑う捜査員も少なくありません。
ですが、被疑者が完全黙秘をしたり、取調べを拒否したりすることに焦る必要はありません。かつては、検察官は自白が取れていない事件を起訴したがらない傾向があったようですが、最近は客観的証拠が固まっていれば自白がなくても起訴する方向性になっています。勾留期間中に検察官とこまめに連絡を取って、どういう捜査をするのか詰めておくといいでしょう。」
涼井は、そこで一区切りをつけると、執務室に戻って古びた本を持ってきた。その本を慈しむように開き、春田に語り掛ける。
「これは、約60年前に、元警察大学校刑事教養部長の尾崎幸一さんが書いた『犯罪捜査の基礎になる考え方』という本です。ここに、こんな記述があります(9頁)。
昔の捜査は、犯罪の嫌疑があれば、すぐに留置して取調べ、その供述(自白)によって証拠を集めるというやり方であった。だから留置取調べは捜査の出発点であって、留置取調べからいろいろの捜査がはじめられた。しかし、今日の捜査では、それが逆になっている。いろいろの捜査によって、証拠が集められ、それによって被疑者は逮捕されるが、その取調べは、それまでの捜査で収集した証拠によって認定されることが、真実かどうかをたしかめるというのが建前である。したがって、被疑者の逮捕は、捜査の出発点ではなくて終点である。だから、被疑者が弁解しなければ、捜査官の得た嫌疑の心証そのままを認めざるを得ないことになるのであって、これを弁解するかどうかは、被疑者の自由であり、それなればこそ、自己の意思に反して供述する必要はないことが、権利として認められる意味があるのである。
黙秘権は、自白に頼らない捜査を求める権利でもあります。約60年前に書かれたとは思えない内容でしょう。尾崎幸一さんは、供述証拠が性質上脆弱であることを指摘し、防犯カメラが捜査の主役となる時代が来ることを予見するような内容も書いています。今の捜査員が読んでも参考になるところがあると思います。残念ながら絶版になっているのですが……私たちもこんな精神で捜査に挑むべきだと思っています。」
春田は、背中の力が抜けていくのを感じた。被告人や弁護人に「打つ手がない」「弁解しないと起訴されるだけ」と確信させるだけの揺るがない捜査をすれば良い。ただ、言葉にすれば簡単なことであるが実践は難しく、正直なところ現実的とも思えない。
しかし、涼井の態度からは「必ず実現する」という強い信念が感じられた。

被疑者が罪を認めようと、黙秘しようと、無罪を主張しようと、被疑者の犯行を裏付ける客観的証拠を固めることが起訴につながることから、落ち着いて捜査をする。
❶ 逮捕までの経緯を確認
❷ 客観的証拠の内容と、成立経過を確認
❸ 事実に基づき物語を組み立てる
❹ 身上と犯行の背景を確認
❺ 罪を認めるか&今後の方針を確認
春田はうなずきながら、ノートに「先生」の講義内容をまとめた。
こうしてみると、“先回り”は、捜査の基本と被ることが多い。春田は、今日まで積み上げられてきた“捜査のマニュアル”が弁護人との闘いを経て洗練されていったものであることを理解し、自信を持って明日の取調べに当たろうと決意を固めていた。
月末の夕方、談話室の窓から柔らかな光が廊下にこぼれていた。春田は談話室に入ると、前回と同じ席に座る涼井に会釈した。涼井はコーヒーが入ったマグカップを持ったまま、春田に声を掛ける。
「お疲れさまです。」
「先生、先日はありがとうございました。」
「いえいえ、無事に起訴されたそうですね。」
「はい、被疑者は最後まで黙秘していましたが、満期の前にはもう観念しているという表情でした。こちらが確信を持って捜査を進めていることが伝わったのかなと思っています。」
「油断は禁物ですが、あなたの表情を見ると安心できますよ。またいつでも相談してください。」
しばらく後、捜査を担当した検察官から春田に電話があった。起訴後に全面的に自白に転じたのだという。春田は自らの捜査が功を奏したことを実感し、深い喜びをかみしめていた。
