涼井警部補の事件簿―弁護士・麻野の視点から―

第2回 セルフレジの万引き事件

涼井警部補の事件簿―弁護士・麻野の視点から―
 薬院法律事務所 弁護士
 鐘ケ江かねがえ 啓司けいじ
「警察公論」2026年10月号58頁掲載「涼井警部補の事件簿――先回りして“封じる”捜査」のアナザーサイド!
セルフレジの万引き事件。
被疑者と弁護人はどんな話をしていたのか。
担当弁護士の思考を解き明かす――
涼井警部補の事件簿 ―弁護士・麻野の視点から―
第2回 
セルフレジの万引き事件
麻野玲子弁護士は刑事弁護が苦手だ。嫌いだといってもよい。弁護士登録をして5年目になるが、私選弁護をしたことは一度もない。弁護士会の新規登録弁護士研修を受けて、そのまま国選弁護人登録をしたものの、もうすぐ辞めたいと思っている。
弁護人が若い女性だと、露骨に舐めてかかってくる被疑者もいる。セクハラ行為をしてくる被疑者もいる。国選弁護人は原則として辞任できないので、我慢することもしばしばある。被疑者が弁護人を脅迫するような事案では辞任が認められることもあるが、そういう被疑者であっても結局誰かが弁護をしないといけない。理屈では分かるが、理不尽だとずっと感じている。
今日は事務所で事業譲渡契約書の審査をしているときに、法テラスから電話がかかってきた。
法テラスのオペレーター
法テラスのオペレーター

スーパーでの万引き事件の国選弁護の依頼がきました。ご受任いただけますでしょうか。

はい。顧問先企業との利益相反がなければ可能です。

麻野弁護士
麻野弁護士
麻野はほっとした。国選弁護では、凶悪な性犯罪事件が回ってくることもある。万引き事件を弁護した経験はないが、そう難しいものではないだろう。
数十分後、法テラスから麻野の事務所に勾留状のFAXが来る。
麻野弁護士
麻野弁護士

甲藤詩織、38歳、スーパーで栄養補助食品(販売価格8,800円)を窃取……
(こんなので勾留されるんだ。前科があるのかな……)

麻野は法テラスからのFAXをクリアファイルに入れて、バッグの中にしまった。
麻野弁護士
麻野弁護士

(スーパーなら示談もできないだろうし、とりあえず、帰りに警察署に寄ってみればいいかな。否認事件だったら黙秘するように言えばいいし。)

 接見室 ――
接見室のドアが開き、ジャージ姿の小柄な女性がうつむいたまま部屋に入ってくる。麻野が声を掛ける。
麻野弁護士
麻野弁護士

はじめまして。あなたの国選弁護人になった麻野といいます。よろしくお願いします。

甲藤は少しだけ顔を上げて答える。

よろしくお願いします。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

あなたは、3日前にスーパーで栄養補助食品を盗んだと疑われているようですけど、間違いないですか?

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

あなたに前科はありませんか。

……半年前に同じようなことをして執行猶予中です。

甲藤
甲藤
麻野は、(ああ、やっぱり)と思いつつ、言葉をつぐ。
麻野弁護士
麻野弁護士

そうなると、今回は、執行猶予は難しそうですね。連絡をとってほしいご家族はいますか。

甲藤はその言葉を聞いて黙り込む。麻野は、こういう女が嫌いだ。悪いことをしているのに、どこか被害者のような顔をしている。
麻野は、手元の勾留状に視線を落とし、できるだけ平板な声で続けた。
麻野弁護士
麻野弁護士

ご家族に連絡を取る必要があります。ご家族はいらっしゃいますか。

……います。
でも、連絡しないでください。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

お子さんは?

3人います。
小学生が2人と、幼稚園の子が1人です。

甲藤
甲藤
麻野は、ボールペンを持つ手を止めた。
麻野弁護士
麻野弁護士

では、なおさら連絡が必要です。
今、お子さんの面倒は誰が見ているんですか。

夫が……たぶん。
昨日、警察の人が夫に連絡したと思います。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

それなら、私からも連絡します。身元引受をお願いできるか、被害弁償や今後の治療について協力してもらえるかを確認します。

治療……ですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

その話も後でします。
まず、事件のことを確認します。

甲藤は小さくうなずいた。
麻野弁護士
麻野弁護士

勾留状によると、あなたは3日前、スーパーのセルフレジで、栄養補助食品を精算せずに持ち出したとされています。その商品は、最初から盗むつもりでバッグに入れたんですか。それとも、精算を忘れただけですか。

甲藤は少し黙った。

……わざとです。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

どういう動きで商品をバッグに入れましたか。

他の商品は普通にスキャンしました。そのサプリだけ、カゴの下の方に入れていて……最後に、エコバッグに入れました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

バーコードを読み取ろうとはしましたか。

していません。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

店を出る前に声を掛けられましたか。出た後ですか。

出口を出たところで、警備員さんに声を掛けられました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

その時、逃げたり、商品を捨てたりしましたか。

していません。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

警備員さんや店員さんに暴力を振るったり、怒鳴ったりは。

していません。謝りました。

甲藤
甲藤
麻野は、淡々とメモを取っていく。
事件そのものは、争いようがない。防犯カメラ映像があり、レジ履歴があり、商品もその場で確保されている。しかも、本人は認めている。執行猶予中の同種再犯。実刑の可能性は相当高い。
麻野は、心の中でため息をついた。
弁護人としてやれることは、限られている。
それでも、限られているからといって、何もしないわけにはいかない。
麻野弁護士
麻野弁護士

前回の事件も、万引きですか。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

その時は、どこのお店で、何を盗んだんですか。

ドラッグストアで、化粧品とサプリを……。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

今回と似ていますね。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

前回の裁判の後、何か再犯防止のために始めたことはありますか。病院に行ったとか、カウンセリングを受けたとか、家族と約束をしたとか。

甲藤は、視線を落とした。

病院は……予約したんですけど、行けませんでした。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

どうしてですか。

子供が熱を出して、その日に行けなくなって。それで、そのまま……。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

あなたのご主人は知っていますか。

知っています。前の裁判の後、次にやったら離婚だと言われました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

今回のことも、もう知っているわけですね。

はい……。

甲藤
甲藤
麻野は、少しだけ声の調子を落とした。
麻野弁護士
麻野弁護士

甲藤さん、私はあなたを慰めるために来たわけではありません。被害に遭ったスーパーがあります。前回の事件で裁判所からチャンスをもらったのに、また同じことをした。その事実は重いです。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

ただ、あなたを責めるために来たわけでもありません。弁護人として、何ができるかを考えるために来ています。だから、きれいな言葉ではなく、本当のことを話してください。

甲藤の目に、うっすら涙が浮かんだ。

自分でも、なんでやったのか分からないんです。

甲藤
甲藤
麻野は、その言葉を聞いた瞬間、反射的に心の中で身構えた。
出た、と思った。
「分からない」
「気づいたらやっていた」
「止められなかった」
弁護人がよく聞く言葉だ。
時に、それは本当なのだろう。
時に、それはただの言い訳なのだろう。
そして、多くの場合、その2つは簡単には切り分けられない。
麻野弁護士
麻野弁護士

分からない、というのは、いつからですか。

前の事件の前からです。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

お金がなくて盗んだんですか。

お金は……余裕はないです。でも、買えないわけじゃないです。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

では、どうしてその商品だったんですか。

疲れていて……。朝はパン屋で働いて、昼はスーパーでレジ係をして、帰ったら子供のことをして。夫も忙しくて、ほとんど話さなくて。サプリを見たときに、これを飲んだら少し楽になるのかなと思って……でも、高いなと思って……。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

欲しかったんですね。

欲しかったです。でも、買えばよかったんです。買えない値段じゃなかったのに。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

盗む前に、やめようとは思いましたか。

思いました。レジに行く前から、やめようと思っていました。でも、レジに行ったら、なんか……手が勝手に動いたというか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

手が勝手に動いた、という表現は、調書でそのまま書かれると誤解されることがあります。責任がないと言っているようにも見えるからです。

そんなつもりじゃ……。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

分かっています。ただ、裁判では言葉の選び方が大事です。あなたが言うべきことは、『盗んだことは間違いない』『悪いことだと分かっていた』『それでもやめられなかった』ということです。そこをごまかすと、かえって信用されません。

甲藤は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、両手を膝の上で握りしめた。

先生、私、病気なんでしょうか。

甲藤
甲藤
麻野は、少し間を置いた。
麻野弁護士
麻野弁護士

私は医師ではないので、診断はできません。窃盗症、いわゆるクレプトマニアという言葉はあります。ただ、その診断名が付いたからといって、責任がなくなるわけでも、必ず刑が軽くなるわけでもありません。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

でも、盗むことを繰り返していて、自分では止められないと感じているなら、専門家につながる必要はあります。刑事事件のためだけではなく、今後の生活のためにです。

……刑務所に行くんですよね。

甲藤
甲藤
麻野は、ここで曖昧な慰めを言うことをやめた。
麻野弁護士
麻野弁護士

同種前科の執行猶予中です。実刑になる可能性は高いです。再度の執行猶予は、制度としてはありますが、今回の事情では相当難しいと思います。

甲藤は、唇を噛んだ。
麻野弁護士
麻野弁護士

ただ、だから何もできない、ということではありません。被害弁償、謝罪、治療を受けること、ご主人の協力、生活状況の整理。場合によっては、一部執行猶予を求めることも検討します。服役することになるとしても、その後にまた同じことを繰り返さないために、今から準備する必要があります。

子供には……なんて言えばいいんでしょうか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

それは、あなたがご主人と決めないといけないことです。私からご主人に連絡します。ただし、私が嘘をつくことはできません。あなたをかばうために、事実と違う説明をすることもできません。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

取調べについてですが、あなたには黙秘権があります。話したくないことは話さなくていいです。ただ、今回は事件自体を認めているのであれば、事実と違うことを言わないこと、分からないことを分かったように言わないこと、調書をよく読んで、違うところがあれば訂正を求めることが大事です。

警察の女の人が、前にも担当だったんです。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

前回の事件の時も?

はい。今回も、その人が取調べに来ました。怒られると思ったんですけど……あまり怒られませんでした。どうしてまたやったのか、一緒に考えようと言われました。

甲藤
甲藤
麻野は、少し意外に思った。

前の時も、その人が『もうしないでくださいね』って言ってくれて。私、本当にもうしないつもりだったんです。でも、また捕まって、その人に会ったら、なんか……申し訳なくて。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

その警察官には、今話したようなことも話しましたか。

少し話しました。朝のバイトのこととか、夫とあまり話していないこととか。

甲藤
甲藤
麻野は、メモを取りながら考えた。
この事件は、思っていたよりも、捜査側が丁寧に動いているのかもしれない。
麻野弁護士
麻野弁護士

分かりました。今日は、次のことをします。まず、あなたのご主人に連絡します。次に、被害店舗に被害弁償と謝罪の意向を伝えます。大きなスーパーだと示談は難しいことが多いですが、できる限りのことはします。それから、治療先を探します。

ありがとうございます。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

それと、あなたにはやってもらうことがあります。

何でしょうか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

前回の裁判の後から今回まで、何があったのかを書いてください。きれいな反省文ではなくていいです。いつ、何に苦しくなったのか。盗む前に何を考えたのか。捕まった時にどう思ったのか。子供やご主人に何を伝えたいのか。自分の言葉で書いてください。

書けるか分かりません。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

書けるところからでいいです。書けないなら、書けない理由も含めて、次に一緒に整理しましょう。

麻野は接見を終えた。
接見室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じられた。
麻野は、自宅にそのまま帰るのをやめて事務所に戻ると、甲藤の夫に電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、疲れた声の男性が出た。

はい。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

突然のお電話失礼いたします。甲藤詩織さんの国選弁護人に選任された弁護士の麻野と申します。

……弁護士さんですか。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

はい。奥様の件で、今後の手続や身元引受のことでご相談したくお電話しました。

もう、無理です。

甲藤の夫
甲藤の夫
電話口の声は、怒っているというより、途方に暮れているようだった。

前の時に、次にやったら終わりだって言ったんです。子供にも、もう迷惑かけられない。何をどうすればいいんですか。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

お気持ちは分かります。今回、同種前科の執行猶予中の再犯ですので、厳しい見通しです。ただ、奥様の今後を考えると、ご家族の協力が必要になる場面があります。

また助けろってことですか。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

助けるというより、事実を整理して、再犯防止のために何が必要かを考えるということです。被害弁償、謝罪、治療先の確保、保釈や公判での監督体制。ご主人に無理なことをお願いするつもりはありません。ただ、できることとできないことを確認させてください。

しばらく沈黙があった。

子供には、まだ詳しく言っていません。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

そうですか。

上の子は、何か気づいています。妻がいない理由を聞いてきます。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野は、返す言葉を探した。
麻野弁護士
麻野弁護士

お子さんへの説明についても、必要であれば一緒に考えます。ただ、まずはあなたが一人で抱え込まないことです。ご親族や、相談できる方はいらっしゃいますか。

妻の母が近くにいます。でも、前の事件の時に相当怒っていて……。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

それでも、子供の生活を維持するためには、大人の手が必要です。刑事事件と家庭の問題は分けて考えましょう。

……分かりました。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

もう1つ確認です。前回の裁判後、奥様は医療機関やカウンセリングに行きましたか。

予約はしました。でも、行きませんでした。僕も仕事が忙しくて、そこまで見ていませんでした。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

今回、専門の医療機関につなげることを考えています。ご主人として、協力は可能ですか。

離婚するかもしれません。それでも必要ですか。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野弁護士
麻野弁護士

必要です。離婚するかどうかと、奥様が再犯を防ぐための手当てをすることは、別の問題です。

電話の向こうで、夫が深く息を吐く音が聞こえた。

分かりました。考えます。

甲藤の夫
甲藤の夫
麻野は、翌日の面談の約束を取り付け、電話を切った。
その後、被害店舗にも連絡をした。
予想どおり、店舗側は示談書の作成には応じられないという回答だった。大型チェーン店では、個別の示談に応じない方針が取られていることが多い。
翌日、麻野は甲藤の夫と面談すると、準抗告申立書の起案に取りかかった。
勾留決定に対する準抗告。
身元引受人として夫の上申書を添付し、子供3人の監護状況、勤務先、住居の安定性、被害弁償の意向、治療機関への受診予定を記載した。
もっとも、通るとは思っていなかった。
執行猶予中の同種再犯である。
翌日、準抗告は棄却された。
麻野は、結果を伝えるために、再び警察署へ向かった。
 接見室 ――
麻野弁護士
麻野弁護士

こんにちは。準抗告は棄却されました。

……そうですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

予想はしていましたが、残念です。ご主人とは連絡が取れました。怒ってはいます。当然です。ただ、子供のことと、今後の治療については、できる範囲で協力すると言っていました。

甲藤は、目を閉じるようにしてうなずいた。

夫は、なんと言ってましたか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

詳しい内容は控えます。ただ、かなり疲れていました。

そうですよね。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

被害店舗は、示談には応じない方針です。ただ、謝罪文は受け取ってくれるかもしれません。

謝罪文、書きます。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

書きましょう。ただし、『許してください』を並べるだけではなく、何をしたのか、相手にどんな迷惑をかけたのか、今後どうするのかを具体的に書く必要があります。まずは、先日もお伝えしましたが、“前回の裁判の後から今回まで、何があったのか”を書いてみてください。3日後にまた接見にきます。

はい。

甲藤
甲藤
 3日後、接見室 ――
麻野弁護士
麻野弁護士

前回の裁判の後から今回までのこと、書けましたか。

甲藤は、留置係から受け取った便箋をアクリル板の下の隙間から差し出した。
文字は小さく、ところどころ震えていた。
麻野は、その場で読み始めた。

前回の裁判の後、夫がしばらく口をきかなかったこと。
子供に「ママ、どこに行ってたの」と聞かれて、病院だと嘘をついたこと。
スーパーでレジを打ちながら、客が商品を買っていくのを見ると、自分だけが置いていかれているような気持ちになったこと。
朝のパン屋の仕事を増やしたのは、家計のためというより、家にいる時間を減らしたかったからだということ。
今回、サプリメントを手に取った時、買うか戻すかを何度も考えたこと。
バッグに入れた瞬間、胸が冷たくなったこと。
警備員に声を掛けられた時、怖かったのに、少しだけほっとしたこと。

麻野は、読み終えると、便箋を静かに机に置いた。
麻野弁護士
麻野弁護士

これは、裁判でも使える可能性があります。

本当ですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

ただし、これを書いたから許されるわけではありません。むしろ、あなたが分かっていながら止められなかったことも、はっきり出ています。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

でも、あなたが自分の言葉で説明しようとしていることは大事です。警察の取調べでも、同じように聞かれているのですか。

はい。荻野さんという刑事さんに、前の事件から今回までのことを聞かれました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

調書には署名しましたか。

しました。読んでくれて、違うところは直してくれました。

甲藤
甲藤
麻野は、また少し意外に思った。
よくある万引き事件の調書は、「生活費に困って盗んだ」「魔が差した」「反省している」という定型文で終わることも多い。
しかし、今回の取調べは、もう少し深いところまで踏み込んでいるようだった。
弁護人からすれば、やりにくい。
だが、同時に、ありがたくもある。
被疑者の背景を、警察官が丁寧に聴き取っている。
それは、情状弁護の土台にもなる。
麻野弁護士
麻野弁護士

甲藤さん、今後の方針を確認します。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

事件そのものは認める。被害弁償と謝罪をする。治療を受ける。ご主人に協力をお願いする。起訴後は、保釈請求を検討する。公判では、再度の執行猶予は難しいとしても、一部執行猶予や、できる限り短い刑を求める。これが基本方針です。

刑務所に行くことは、もう決まっているんですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

決まってはいません。決めるのは裁判所です。ただ、可能性は高いです。だからこそ、現実から目をそらさない準備をします。

甲藤は、しばらく黙っていたが、意を決したように顔を上げて口を開いた。

先生は、私のことが嫌いですか。

甲藤
甲藤
麻野は、思わず甲藤の目を見た。
最初に接見室で会ったとき、自分は確かに思った。
こういう女が嫌いだ、と。
悪いことをしているのに、被害者のような顔をしている。
そう思った。
しかし、いま目の前にいる甲藤は、そんな顔はしていない。
かといって、加害者という一語だけで片づけられるほど単純でもない。
盗んだ人間である。
母親である。
妻である。
働き手である。
そして、また盗むかもしれない人間である。
その全部を、法廷に持っていくのが弁護人の仕事だ。
麻野弁護士
麻野弁護士

好き嫌いで弁護はしません。

……はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

ただ、あなたがしたことは嫌いです。前回の裁判でチャンスをもらって、それでもまた盗んだ。そのことは、簡単に許されるものではありません。

甲藤は、うつむいた。
麻野弁護士
麻野弁護士

でも、あなたがこれからどうするかについては、私は弁護人として一緒に考えます。それが私の仕事です。

甲藤は、小さく「ありがとうございます」と言った。
接見を終えた麻野は、事務所に戻る途中、検察官に電話を入れた。
担当検事は若い男性で、淡々とした口調だった。
麻野弁護士
麻野弁護士

甲藤詩織さんの件で、弁護人の麻野です。本人は事実を認めています。被害弁償と謝罪の意向があります。治療機関への受診も調整しています。

分かりました。ただ、同種事犯で執行猶予中ですからね。

検察官
検察官
麻野弁護士
麻野弁護士

そこは理解しています。勾留延長については、必要性を慎重にご検討いただきたいです。証拠関係はかなり固まっているはずですし、夫が身元引受をする意向です。

検討はします。ただ、余罪の確認もあります。

検察官
検察官
麻野弁護士
麻野弁護士

余罪ですか。

前回以降、同種行為がないか、店舗側の防犯カメラ映像やフリマアプリの履歴などを確認しています。

検察官
検察官
麻野は、少し眉をひそめた。
確かに、その視点はある。
今回だけではない可能性。
万引き再犯事件では、そこを確認されるのは当然だった。
麻野弁護士
麻野弁護士

本人には、余罪があるなら正直に話すよう助言します。ただし、誘導的な取調べにならないようお願いします。

もちろんです。

検察官
検察官
電話を切った後、麻野は椅子にもたれた。
思っていたより、ずっと手間がかかる事件だった。
8,800円の栄養補助食品。
紙の上では、それだけの事件だ。
しかし、その背後には、前回の裁判があり、家族があり、仕事があり、子供がいて、夫の怒りがあり、被害店舗の処罰感情があり、再犯防止の難しさがある。
麻野は、刑事弁護が苦手だ。
民事事件の契約書のように、条項を直せば整うものではない。
どれだけ努力しても、依頼者はまた同じことをするかもしれない。
被害者に納得してもらえるとも限らない。
裁判所に響くとも限らない。
それでも、誰かがやらなければならない。
数日後、甲藤は窃盗罪で起訴された。
―― 起訴後 ――
麻野弁護士
麻野弁護士

こんにちは。起訴されました。

はい。検事さんから聞きました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

公訴事実は、今回のスーパーでの栄養補助食品1点の窃盗です。少なくとも、現時点で余罪は起訴されていません。

そうですか……。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

起訴されたので、これから保釈請求をします。通るかどうかは分かりません。実刑見込みの事件ですし、執行猶予中の再犯です。ただ、子供のこと、夫の身元引受、治療機関の予約、被害弁償の準備を資料として出します。

外に出られたら、病院に行きます。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

行くだけでは足りません。通い続けることが必要です。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

それと、証拠開示を受けたら、警察で作られた調書や防犯カメラ映像の内容を確認します。あなたが話したことと違うところがないか、一緒に確認しましょう。

荻野さんの調書もですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

もちろんです。

それからしばらくして、検察官から証拠開示があった。
防犯カメラ映像、セルフレジの操作履歴、警備員と店員の供述調書、被害店舗の被害届、前科資料、そして甲藤の供述調書。
麻野は、甲藤の供述調書を読みながら、思わず小さく息を吐いた。
よくできている。
単に「盗みました」「反省しています」で終わっていない。
商品を手に取った時の気持ち、セルフレジでスキャンしなかった時の認識、前回の裁判後の生活状況、家族との関係、医療機関につながらなかった経緯、警備員に声を掛けられた時の感情まで、過不足なく整理されている。
しかも、責め立てた痕跡がない。
甲藤が自分の言葉で話した内容として、自然に読める。
弁護人にとって、これは厄介な調書だった。
否認に転じる余地はほとんどない。
「単なる精算忘れ」という弁解も、レジ履歴と防犯カメラ映像で封じられている。
「生活に困っていた」という単純な物語も、調書の中で相対化されている。
「病気だから仕方がない」という逃げ道も、本人の責任の自覚とセットで記録されている。
しかし、同時に、これは弁護に使える調書でもあった。
甲藤が、事件と向き合い始めていることが分かるからだ。
麻野は、証拠の束を閉じた。
先回りされている。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
弁護人が見つけるであろう弱点を、警察官が先に押さえている。
だからこそ、弁護人は、無理な争いではなく、正面から情状を組み立てるしかない。
麻野は、次の接見で甲藤にこう伝えた。
麻野弁護士
麻野弁護士

証拠を見ました。事件そのものを争うのは難しいです。むしろ、争わない方がいいと思います。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

警察で話した内容も、大きな問題はありません。あなたが自分の弱いところを話している分、公判でもその続きを話す必要があります。

続きを、ですか。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

そうです。捕まった時点で終わりではありません。そこから何を始めたのか。病院に行くのか。家族とどう話すのか。被害店舗にどう謝るのか。出所後にどう生活するのか。裁判所はそこを見ます。

先生、私、変われますか。

甲藤
甲藤
麻野は、すぐには答えなかった。
麻野弁護士
麻野弁護士

分かりません。

甲藤は、少し驚いた顔をした。
麻野弁護士
麻野弁護士

変われるかどうかは、私が保証できることではありません。ご主人も、裁判所も、警察官も保証できません。あなたが、毎日選ぶことです。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

ただ、変わるための準備をすることはできます。私は、その手伝いをします。

甲藤は、静かにうなずいた。
麻野は、接見室を出る前に、ふと振り返った。
麻野弁護士
麻野弁護士

甲藤さん。

はい。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

被害店舗への謝罪文、書き直しましょう。今のものは、少し自分の苦しさに寄りすぎています。相手が読んだ時にどう感じるかを考えてください。

分かりました。

甲藤
甲藤
麻野弁護士
麻野弁護士

あなたが苦しかったことと、お店に迷惑をかけたことは、両方本当です。片方だけにしないでください。

甲藤は、その言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。

はい。

甲藤
甲藤
麻野は、警察署の外に出た。
夕方の空は薄い灰色で、雨が降りそうだった。
バッグの中には、事業譲渡契約書の修正案と、甲藤の事件記録が一緒に入っている。
事業譲渡契約書の条項は、どれだけ複雑でも、直すべき箇所が見えれば前に進む。
けれど、人間はそうではない。
直すべき箇所が分かっても、直らないことがある。
直したつもりでも、また壊れることがある。
だから、麻野は刑事弁護が苦手だ。
今でも、好きにはなれない。
それでも、今日の接見で、少しだけ分かったことがある。
刑事弁護は、被疑者を被害者に仕立てる仕事ではない。
被害者の存在を消す仕事でもない。
起きたことを直視させ、それでもなお、その人を法廷に一人で立たせない仕事なのだ。
麻野は、傘を持って来なかったことを思い出し、小さく舌打ちした。
それから、甲藤の夫に送るメールの文面を考えながら、駅へ向かって歩き出した。
イラスト/安ヶ平正哉

 

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