安心草堂(第4回)

007は実在するのか

安心草堂(第4回)
日本アイ・ビー・エム株式会社
特別顧問
元警察大学校長
近藤こんどう 知尚ともひさ
1 世界で最も有名なスパイ

「世界で最も有名なスパイ」と言えば、やはり映画でおなじみのコード・ネーム「007」ことジェームズ・ボンドでしょう。ただし、言うまでもなく、彼はアクション映画シリーズにおける架空の人物です。それでは、彼の所属先のモデルになったと思われる英国の実在する情報機関MI6には、007のような人物は存在するのでしょうか。その答えは、ノーです。

MI6は、正式な組織の名称をSIS(Secret Intelligence Service 秘密情報部)と言いますが、基本的には、HUMINT(人的情報)により情報収集を行うことに特化した情報機関です。一方で、敵対する国に潜入し、要人を暗殺したり、重要施設を爆破したりするなどの破壊工作活動は、第二次世界大戦中などの特殊な場面を除いて、平時には行いません。その理由は、両者が別のものであるからです。

情報収集活動と破壊工作活動(両者はしばしば、Intelligenceと(Clandestine)Operationsとして対置されます)は、その行動を秘匿するという点で、秘密工作としての共通点を有しています。しかしながら、それぞれを担う人材は異なっており、その組織文化もまた同じではありません。後者の破壊工作活動に携わる要員の典型は、軍や警察の特殊部隊に所属する隊員が私服を着たようなタイプで、若く、優れた体格と運動能力を有する、言わば格好の良いスポーツマンです。一方、前者の情報収集活動に従事する要員には、そのような固定した属性はなく、目立たない中年の女性だったり、風采の上がらない学者だったり、貿易商や文筆家だったりと、要するに情報が取れるのであれば、何でも良いのです。逆に言うと、情報を取るために必要なことは何でもするので、例えば、敵対する国の主張に同調する学者やジャーナリストであっても、そのことによって情報が取れるのであれば、表面的には自国の利益に反する言動をしていても情報収集要員としては構わないわけです。破壊工作活動では、敵を破壊するという方向性が明確ですが、情報収集活動においては、情報さえ取れれば良く、極端な言い方をすれば、情報を取ることがすべてに優先します。

情報収集活動には、誰の目にも見える目立った特定の成果があるわけではなく、日常的な努力の積み重ねが続く中で成果をあげたとしても、それが広く知られて賞賛されるということもありません。孫武の作とされる中国の有名な兵書『孫子』の「第四 形篇」に、「善く戦う者の勝つや、智名もなく、勇功もなし。」※1 という言葉があります。「最もうまくやりとげる人は、外から見ると目立たず自然にそれを達成するので、その名が賞賛されたり、手柄としてほめられたりすることがない」というような意味でしょうか。『孫子』には「彼を知り、己れを知れば、百戦して殆うからず」※2 という有名な一節も記されていますが、先の言葉は、情報により目的を成しとげた場合のことをよく言い表していると思います。

しかし、それでは面白い映画はできません。007が地味な情報収集活動だけをしていても、映画にはならないわけです。そこで、映画のヒーローにふさわしい様々なアクションを取り入れることで、世界中で人気のあるドラマチックな映画シリーズが出来上がったわけです。

イラスト/三木謙次

※1
  町田三郎・尾崎秀樹訳『孫子・呉子』中公文庫、2018年、p.37
※2
  町田ほか・前掲p.33

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